空気を読むことは美徳だけど
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「空気を読む」という言い方はかなり以前から定着していて、
「空気を読めない人」と言われると、誰でも大なり小なりダメージを受けてしまうのではないでしょうか。
空気を読めない人が何を読んでいるかというと、「自分」なんですね。
「空気」とはみんなの顔色だったり、まわりの雰囲気だったり、それぞれの関係性だったりします。
ですから、「空気を読む」の反対は「自分を読む」になります。
自分のことを一生懸命考えてるからまわりのことが見えなくなるんです。
人間の能力には限界がありますので、自分のことを深く考えながら、同時にまわりのことにも気を配るのはかなり難しいです。
よっぽど器の大きい人は別ですけれども。
でも、人間ですから、自分のことをまず深く考えたくなります。
自分の可能性や、自分がまわりからどう見られているか、自分がどう振る舞えばいいのか、そんな自分のことで頭が一杯一杯になります。
それはとても自然なことだと思います。
でも、そうなってしまうと「空気読めよ!」と突っ込まれてしまうので、なるべく自分を突き放してしまうんですね。
さて、「空気が読めない人」という言い方には、「空気が読める」ことは無条件でいいことだ、という暗黙の了解があります。
しかも、無条件でいいことというだけでなく、空気を読むことを当然のこととして求められる傾向があります。
「空気が読める」という技術があって、それが絶対に正しくて当然なことだという認識はいつから生まれたのでしょうか。
ということを言っても、「空気を読むことは正しくて当然だろ、それくらい空気読めよ」とツッコまれる時代になっています。
他の国に「空気を読む」という表現はなく、空気を読んで周囲との調和を大切にすることは日本人の美徳と言えるかもしれません。
けれど、空気を読むことだけが上手になるのは日本人にとって幸福とは言い難いのではないかと思うのです。
みんなが気を使う世界は素晴らしいですが、気だけを使って疲れ果てている世界は生きにくさを感じずにはいられません。
精神的、身体的に健康でいるためには、空気を読んでみんなの気持ちがわかった上で、あえて空気を無視して自分を通すことも必要なのではないでしょうか。
気配りだけが上手になると、空気を読みすぎて自分をなくしてしまいかねないので、「空気」だけでなく、もっと「自分」を読んでいいと僕は思っています。