明晰夢の庵

懐かしの純喫茶でコーヒーをしばきながら

希望が枯れたらそこら辺のペンペン草でも育てればいい

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店内にネコが数匹うろつくものの、こちらから触れることはご法度という少し風変りなカフェでボーッとしていたらコーヒーがすっかりヌルくなってしまった。

ここの店長は客よりもネコの機嫌を優先する。

素晴らしい。

 

高いところにあるキャットウォークで寝ているネコを見ながら頭に浮かんだ言葉を適当に繋ぎ、スマホに入力する。

 

人間、足るを知らなければ欲は限りなく増大する。

ある程度歳を取ったら諦めが肝心だと自分に言い聞かせてはみるものの、何もない箱に顔を突っ込んでは底の隅々や蓋の裏まで探し求めてしまう。

希望はミリ単位の欠片すら転がっていないことを再確認し、蓋をして心の奥底に押し込む。

無駄だとわかっていても、また数日後に引っ張り出して中を開けずにはいられないだろう。

 

思い返せば仕事も異性関係も何もかもパッとしない凡庸以下の人生だった。

自分の人生に満足している大人というのもそう多くはないだろうし、こんな無気力な人間が望んでいいものでもないだろう。

満足のいく人生なんてものは、最愛の伴侶を手に入れ、仕事も充実している人間に与えられる称号のようなものだ。

神の寵愛を受けた選ばれし者のみ手にすることができる。

持たざる凡庸以下の人間は何気ない日常の一コマや差し込む日の光に幸福を感じて粛々と生きればそれで良いのだ。

 

仮に足が不自由で車椅子生活の人がいたとする。

神様に一つだけ願いを叶えてやろうって言われたら間違いなく立って歩けるようにして欲しいって言うんじゃないかな。


何が言いたいかって言うと、自分は何もせずともその奇跡を手にしてしまってるのよね。


そういう、倫理的にいささか疑問のある相対化をしたり、今日は頭痛がない!腹痛もない!サイコー!って無理矢理にでも思わなきゃやってられないわけで…


とは言え、動物を愛でたり、知を得るために書物を読み漁る日々というのもそれはそれで悪くない。

何かしら拠り所があり、多くを望まなければ少なくとも不幸ではないだろう。